忍者ブログ
いろんなものや人、動物との出会い
[2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サレカット・イスラームSarekat Islam)は、オランダ領東インド(現インドネシア)で結成されたイスラーム系大衆団体である。「イスラム同盟」と訳される例も多い。略称はSI

当初は華人系商人に対抗するムスリムの商人組織として結成されたが、組織の拡大とともに植民地支配に抵抗する急進的な民族主義団体としての性格を強め、1910年代から1920年代初頭にかけて、当時としては空前の規模の動員力を誇った。1923年にはサレカット・イスラーム党、さらに1929年にインドネシア・サレカット・イスラーム党 (PSII) と改名した。

1973年スハルト体制下において、他のイスラーム系諸政党とともに開発統一党 (PPP) に統合された。

サレカット・イスラームの前身は、バタヴィア(現ジャカルタ)と西ジャワのバイテンゾルフ(現ボゴール)で、それぞれ1909年1910年に結成されたサレカット・ダガン・イスラーム Sarekat Dagang Islam (イスラーム商業同盟、以下SDI)である。この団体を結成したのは、ジャワ貴族出身のジャーナリスト、ティルトアディスルヨ Raden Mas Tirtoadisoerjo (1880 - 1918) であり、彼の目的は同じムスリムであるアラブ人商人と「原住民 inlanders」商人が手を結び、当時の東インドで活発な経済活動をおこなっていた華人系商人に対抗することだった[1]

こうした動きにソロ(スラカルタ)の大手バティック業者、サマンフディ Haji Samanhudi (1868 - 1956) も刺激を受けた。1911年、ティルトアディスルヨの協力を得て、サマンフディはソロで同様の組織を結成した。サレカット・イスラーム(以下、SI)の名称は、そのときの組織要綱で初めて使用され、以後、各地で結成される同様の組織にも定着していったようである[2]

1912年9月10日、サマンフディはソロSIの議長の座を退き、SIスラバヤ支部のチョクロアミノト Haji Umar Said Tjokroaminoto (1882 - 1934) がその座に就いた。雄弁をもって知られたチョクロアミノトの指導のもとで、SIはジャワ島各地で支部を設立し、急速に組織を拡大していった。1912年4月には4500人だった会員数が、1913年4月には15万人に、さらに1914年頃にはジャワ島外にも組織は拡大し、1914年4月の会員数は37万人に達した[3]

このように1910年代前半にSIが急速に組織を拡大させた最大の要因は、組織の紐帯としてイスラームを前面に押し出したことであった。東インドにおけるムスリム人口は全体の9割前後であり、その潜在的な動員力は既存の各種団体のそれを上回るものだった。そして組織の拡大とともに、その主導権は、SDIにおける商人たちから、貴族階級出身でオランダ語教育を受けた知識人層へと移っていった[4]

設立当初のSIは、植民地政府と良好な関係を保とうとしており、オランダ支配下での現地住民の福祉向上をはかり、現地住民の声を代弁する植民地議会の開設を政治的要求の一つに掲げていた。また、植民地政府の側も、当初はSIの活動を容認していた。1912年11月、SIが植民地政府に合法団体としての承認を要請すると、1913年6月30日、植民地政府はSIの地方支部を個別に承認するという方針を打ち出した。そして最終的には、1916年、植民地政府は中央SIを正式に承認したのである[5]

勢力を拡大しつつあったSIだが、その実態は「地方SI支部の寄り合い所帯」にすぎなかった[6]。中央SIから地方支部への統制はかならずしも及んでおらず、地方では中央SIの規約からの逸脱がみられた。そのなかでも、SIスマラン支部は、インドネシア共産党 (PKI) のスマウン、アリミンが参加したことによって急速に左傾化を強めていった。当時のPKIの戦略は、既存の他組織に党員を参加させ、その組織内で共産主義者の影響力を高め、組織全体を共産党の影響下に置くことであった。また、当時のスマランは新興工業都市であり、各種組織による労働組合運動が盛んだった。セマウンらはこうした労働組合運動を通して、賃金上昇などの成果を得ることに成功し、その影響力を強めていった[7]

こうした地方支部における急進派の影響を受けて、1917年10月に開かれたSIの第2回大会では、植民地支配を否定し、自治権の獲得を謳う綱領が採択された。さらに1918年9月、10月に開かれた第3回大会ではPKIのスマウン、アリミンが中央SI指導部に入り、植民地政府に対する要求をさらに先鋭化させていくことになった[8]

1918年5月には東インドに植民地議会 (Volksraad) が開設され、SIからは総裁チョクロアミノトと、副総裁アブドゥル・ムイスが任命議員として参加した[9]。チョクロアミノトらは、この植民地議会での活動を足がかりに、植民地政府に対して「原住民」の地位向上と住民自治の拡大をもとめていこうとしたが、SI内の急進派は、そうした中央SI首脳の活動を微温的であるとして満足しなかった。

1919年6月7月に相次いでセレベストリトリ西ジャワガルットで暴動が発生すると、植民地政庁はその暴動とSIを関連づけ、従来の穏健な対応を改め、SIの弾圧に乗り出した。その結果、SIからは会員の脱退がすすみ、その会員数を激減させた[10]

1921年6月、SIの指導下に結成された労働者運動連合(結成1919年12月、22労組、7万2000人)から、セマウンは14労組を引き抜いて脱退させ、PKIの直接指導下に置いた。ここに到って、セマウン、アリミンらのスマラン支部派とアグス・サリムらのジョグジャカルタ派の対立は最高潮に達し、同年10月に開かれた第6回大会では両者の激しい論戦が繰り広げられ、サリム派が主張する「多重党籍禁止」案が採択された。これによりPKI党員のSI在籍は否定され、PKISIから大量に脱退した[11]

1923年2月SIPKIによる支部の侵食に対抗するため、組織をサレカット・イスラーム党 Partai Sarekat Islam に改編し、党としての体裁を整えることになった[12]

サレカット・イスラーム党は既存のイスラーム系社会団体と共闘する方針を打ち出したが、イスラーム保守派との共闘には失敗[13]、改革派のムハマディヤとアハマディヤに接近した。しかし、この2団体はライバル関係にあり、チョクロアミノトが後者に接近しすぎたことで、1928年ムハマディヤはサレカット・イスラーム党と袂を分かった。その結果、同党は、東インドにおけるムスリムを代表する勢力としての役割も果たせなくなった。1929年インドネシア・サレカット・イスラーム党 Partai Sarekat Islam IndonesiaPSII)へと改名し、党勢の回復を図ろうとしたが、1930年には党員数1万9000人の小政党へと転落した[14]

そのころ、民族主義運動を主導していたのは、1927年スカルノらによって結成されたインドネシア国民党 (PNI) であった。インドネシアの独立を掲げて植民地政府との対決姿勢をアピールしたPNIは、主にジャワの都市部を中心に支持を広げたが、1929年末にスカルノら党幹部が逮捕されると、PNI1931年に解散した。

植民地政府が民族主義運動に対して強硬路線を敷き、民族主義運動をめぐる環境がきびしさを増していくなかで、1934年12月にチョクロアミノトが死去し、PSII自身も運動のありかたについて深刻な内部対立をかかえていた。植民地政府との非協力路線を続ける主流派に対して、アグス・サリムら反主流派が非協力路線の撤回をもとめたのである。1937年、主流派はアグス・サリム、モハマド・ルム Mohamad Roem (1908 - 1983) ら反主流派を追放し、PSIIは非協調路線を継続していくことになった[15]

しかし、最終的には、1939年5月、東インドをとりまく国際環境が風雲急を告げるなかでPSIIも協力路線を取ることを余儀なくされ、協力路線を取る諸組織による統一戦線「ガピ GAPI」 (Gabungan Politiek Indonesia - インドネシア政治連合) に合流した[16]。さらにPSIIは、1940年5月、植民地政府によって活動禁止処分となった。

[編集] その後

1942年オランダ領東インドが日本の占領下に置かれると、PSIIは再結成されたが、同年5月、軍政当局によって解散させられた。軍政当局は既存のイスラーム系団体のうち、ナフダトゥル・ウラマームハマディヤといった非政治的団体のみを重用し、東インドのムスリムを軍政に利用するため、これらの非政治的ムスリムを糾合して、マシュミを結成した。

日本の敗戦によって東インドにおける日本軍政が終了し、1945年8月17日インドネシアが独立を宣言すると、オランダとのあいだで独立戦争がはじまった。その戦争期間中の1947年PSIIは再結成され、インドネシア社会党首班のアミル・シャリフディン内閣を支持した。また、独立宣言後に再組織されたマシュミにも参加した。このときのPSII指導者は、アンワル・チョクロアミノトとハルソノ・チョクロアミノト(上記のチョクロアミノトの二人の息子)、そしてアルジ・カルタウィナタらであった[17]

インドネシアがオランダからの独立を達成した後、インドネシアでは1950年憲法下での議会制民主主義が導入された。1955年の第1回総選挙で、PSIIは8議席を獲得、その後、スカルノの指導される民主主義体制期、9月30日事件を経て、スハルト政権下での1971年選挙では、10議席を獲得した。この選挙自体は政権与党ゴルカルの圧勝で終わり、その後、1973年に政党ゴルカル法が定められ、既存の政党はイスラーム系の開発統一党 Partai Persatuan Pembangunan (PPP) か非イスラーム系のインドネシア民主党 (PDI) のいずれかに統合されることになり、PSIIは前者に統合された。

人妻人妻
PR

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アナトリアギリシア語 Ανατολή, トルコ語 Anadol)半島は、小アジア(半島)(Μικρά Ασία)とも言い、西アジアの一部で、現在トルコ共和国領土のアジア部分を構成している。

アジアとヨーロッパを繋ぐ戦略的に重要な地点に位置するため、アナトリア半島は先史時代からいくつかの文明の発祥地となり、人類最古の定住遺跡と言われるチャタル・ヒュユクなどの数多くの遺跡が発見されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動: ナビゲーション, 検索

不完全菌(ふかんぜんきん)とは、子のう菌・担子菌の仲間で、有性生殖を営むステージが未発見で分類学的な位置がよくわからないものを仮にまとめるということで成立した群である。菌類の無性生殖のみで増える体を不完全型、そのステージを不完全世代と呼んだが、この不完全型のみしか発見されていないことからこの名称で呼ばれた。有性生殖を行うステージを完全型、そのステージを完全世代と呼ぶが、通常これは同時に無性生殖も営む。身近に見ることのできるカビの大部分は不完全世代を目にしており、そこに不完全菌が含まれる率は高い。

菌類は通常の栄養生活を営む体が視覚的特長に乏しい菌糸体であり、生化学的手段をとらない限り、生殖器によらなければ同定は困難である。また既知の子のう菌や担子菌の不完全型と酷似していても、完全型が未知の近縁別種であったり、有性生殖能力を喪失した近縁種である可能性は棄却できない。そのため、完全型が発見されている菌であっても、得られた不完全型の菌を便宜上、不完全菌として扱うことが多い。

たとえばパンの上に生えてくるカビは、アオカビやコウジカビであることが多い。これらのカビはすぐにたくさんの胞子を作る。これらの胞子は体細胞分裂で作られるもので、飛んでいって発芽すれば、同じような菌糸体を生じる。また、この胞子を培養すれば、シャーレ内の人工培地上で、何世代でも同じ菌糸体を培養することができる。このように、無性生殖によって生活を続ける菌は、有性生殖をなかなか見ることができないものが多い。アオカビやコウジカビには、菌糸の接合の後、小さな子実体を作るものがあるが、それらを見ることは珍しい。

菌類の分類は、有性生殖や、減数分裂によってできる構造(完全世代と呼ぶ)を中心に行われるので、このように無性生殖ばかりを繰り返す(不完全世代と呼ぶ)菌は、正しい分類ができない。このことから、このような菌類を不完全菌と呼ぶようになった。不完全菌がそのような有性生殖などが見つかれば、正しい分類位置を定めることができる。その場合には、正しい学名がつけられる。しかし、完全世代が見つかるまでは名前が付かないでは困るので、不完全菌に対しても学名は与えられる。その場合、正しい類縁関係が反映されることは必ずしも期待できないので、形態に基づくものと割り切らざるを得なくなる。もちろん、完全世代が見つかり次第、正しい学名がつくわけだが、それでも実際に菌を見れば、やっぱり無性生殖ばかりで暮らしている訳なので、不完全菌としての名前も使って良いことになっている。ちなみに不完全菌の属名は日本語では区別しないが、genusではなくform-genusである。形態にのみ基づく分類であるとの意味である。

また、無性生殖ばかりが見つかるカビであっても、接合菌門のカビやツボカビ門,あるいは卵菌類のものは、無性生殖器官の特徴(接合菌なら胞子のう)とか、菌糸体の特徴(たいていは多核体)によって、それと判断がつく場合が多く、その場合はそれぞれの位置に置かれるので、不完全菌に扱われることはない。ただし、接合菌には菌糸体の特徴からも胞子の特徴からも判別しがたい場合があり、若干ながら混乱した事例もある。

そういうわけで、現在では不完全菌と言えば、子のう菌か担子菌の系統の菌類で、無性生殖を繰り返して生育するものを指す。かつては、これを独立した分類群のように扱い、不完全菌亜門・糸状不完全菌綱などの名称があったが、近年ではそのような扱いはしない。どの不完全菌でも、完全世代が見つかれば、子のう菌か担子菌に入るのだから、わざわざ独立群をたてる意味はない、との立場である。しかし、実際には完全世代を持たない不完全菌が多数あることも想定されている。現在では、分子遺伝学的に類縁を調べる方向の研究も進められている。これならば、完全世代が見つからなくても所属が判断できる理屈である。

セックスフレンドセフレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(かみ)とは、人間の及ばぬ知恵・知識・力を持つとされる存在の一種で、人間を含む生命やこの世界そのものなどを創り出した存在であるとされることもある。人知を超えた力や運命と関連づけられ、信仰や畏怖の対象となる。

世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える)、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。一方日本に限って見ると、日常生活においては神をさほど意識していない人が多数派であるようだ。

人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。神が存在しないと信じている者は無神論者と呼ばれ、神が存在するかどうかを知りえないと考える者は不可知論者と呼ばれることがある。

神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方の中には、両立可能なものもあれば、そうでないものもある。

  • 造物主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行った時に、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
  • アニミズム(汎神論)における神。洞窟や岩、山、(泉、)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
  • 守護神、恩恵を与える者としての神。神は祈り、信仰、犠牲などに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方がある。
  • 人格神。神が人と同じような姿や人格を持つとする考え方がある。
  • 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばアインシュタインやスピノザはこのような考え方を採ったことで知られている。汎神論。

    一神教では『唯1つの神』を信じるため、自宗教を絶対化して他の宗教に対して排他的になる側面もあるが、自宗教の絶対性と神の絶対性の区分を学んだ場合そこから他宗教との共存と和解を目指す思想が生まれる側面もある。一方多神教は多数の神を信じる為他宗教の神を自宗教の神に取り入れやすく、その点に於いて寛容の思想が生まれうるが、一神教に見られるように『唯一の、万民の為の神』を信じないため、取り入れないと決めた信仰に対しては強い排他的側面を見せうる。


    一神教においては、神は唯一の絶対的な超越者であり、人間とは決定的に異なる存在である。神の以前には何も存在しない。

    多神教においては、多数の神が同時に考えられ、しばしば一神教の神より人間的で過ちも犯す存在である。 自然の存在や現象が神となることもあれば、実在の人間が信仰を集め神となることもある。

    実在した人を起源に持たない神を以降「自然神」と記述する。自然神には、自然の一部、太陽や山や川、岩や古木などが信仰の対象になり、しばしば人格を持つ神へと昇華されたもの、あるいは、哲学的概念が神格化されたものなどがある。

    実在した人を起源に持つ神を以後「人間神」と記述する。生前に著名な働きをしたり、神との接触を得た人間などが神として信仰されるものである。

    日本の神道では有力者が悲痛な最期を遂げ、その後に大きな災害などが起きた場合、その人物を大きく祭りあげる事がある(例: 御霊信仰)。災害の原因をその者の怨みにあるとして、祭りあげることで怨みを解消し、さらには災害をもたらした強大な力が自分たちに利益をもたらしてくれることを期待する。(祟り(たたり)の神を、逆に守護神へと転化する例)

    一神教の例として、アブラハムの宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある。

    いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマド・イブン=アブドゥッラーフによってイスラム教が生じた。

    これらは一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である。天使はある時は普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアへの信仰も、厳密には敬愛であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。

    またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。

    実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。成文化された教義と現実的な宗教行為が齟齬することも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。神教の例として、インドのヒンドゥー教と日本の神道がある。どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。ただし、教義上の論争は多神教どうしでも激しく行なわれていたし、実際に他宗教他宗派を弾圧することもあり、必ずしも多神教が寛容で一神教が排他的であるとも言えない。

    ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。

    シヴァは世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。実在した人物とも言われ112の瞑想テクニックなどを残している。

    ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々が、ヒンドゥー教の体系に組み込むために、ヴィシュヌの生まれ変わりとされた。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。

    ブラフマン(梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。対応する実在の人物はおらず、自然神として扱われる。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。

    なお、ヴェーダーンタ系の宗教でも、いわゆる「神々」に対する説明がある。七つの身体論によると第四身体に意識的に到達した人物が肉体を離れると、その空間(メンタル界)に意識的に留まることができ好きなだけ留まることができる。肉体を持たずにこの世界にやって来たり、影響を与えることができる。これが、いわゆる神々であったり、神のように振舞うことが出来ると考えられている。また、龍(ドラゴン)も神の一種とされる。

    仏教は本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を 信仰するものではなかった。 現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。

    時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの(仏)として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。 仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の垂迹本地垂迹として、 あるいは護法神として取り込んだのである。 大乗仏教では仏自体も事実上は有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。

    日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の市杵島姫神と習合した。(神仏習合、本地垂迹説)

セックスフレンドセフレ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。

世界の宗教の信者数は、キリスト教の20億人 (33%) 、イスラム教(イスラーム)13億人 (22%) 、ヒンドゥー教9億人 (15%) 、仏教3億6000万人 (6%) 、儒教・道教2億3000万人 (4%) 、無宗教8億5000万人 (14%)、その他(6%程度)である。

一般にキリスト教、イスラム教、仏教は世界宗教とよばれ、人種や民族、文化圏の枠を超え広範な人々に広まっている。また、特定の地域や民族にのみ信仰される宗教は、民族宗教と呼ばれ、ユダヤ教や神道、ヒンドゥー教[1]などがこれに分類される。

これらよく知られた宗教には、実際には様々な分派が存在する。キリスト教をとっても大別してカトリック、プロテスタント、東方正教などに分かれ、イスラム教もスンナ派、シーア派などが存在する。また、現在においても新宗教(新興宗教)が新たに興っている。このように世界には、様々な世界の宗教が存在する(日本の宗教も参照。)

日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今で言う「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まった、とされている。

原語のほうの英語 Religion は、ラテン語のreligioから派生したものである。religioは、「再び」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。[2][3]

磯前順一によれば[4]、Religionの語が最初に翻訳されたのは日米修好通商条約(1858年)においてであり、訳語には「宗旨」や「宗法」の語があてられた。他にも、それに続く幕末から明治初頭にかけての間に用いられた訳語として、「宗教」「宗門」「宗旨法教」「法教」「教門」「神道」「聖道」などが確認できるとする。この内、「宗旨」、「宗門」など宗教的な実践を含んだ語は、「教法」、「聖道」など、思想や教義の意味合いが強い語よりも一般に広く用いられており、それは多くの日本人にとって宗教が実践と深く結びついたものであったことに対応する。「宗教」の語は実践よりも教義の意味合いが強い語だが、磯前の説ではそのような訳語が最終的に定着することになった背景には日本の西洋化の過程で行われた外交折衝や、エリート層や知識人の価値観の西欧化などがあるとされる。

「宗教」の語は、1869年にドイツ北部連邦との間に交わされた修好通商条約第4条に記されていたReligionsübungの訳語に選ばれたことから定着した、とされる。[5][6] また、多くの日本人によって「宗教」という語が 現在のように"宗教一般" の意味で用いられるようになったのは、1884年(明治17年)に出版された辞書『改定増補哲学字彙』(井上哲次郎)に掲載されてからだ、ともされている。

宗教の定義は後述のとおり使用される場合によって変わり、厳密な定義ができるものではないが、一般的な傾向は存在する。傾向として、次の諸点が指摘できる。

  • 宗教組織としての傾向
    • 信仰の対象および内容を規定した教義がある。
    • 教義や戒律にともに従う信仰のための信者団体である教団がある。
    • 信仰の証として守るべき禁止事項である戒律がある。
    • 暦の中で位置付けられた年中行事や人生の過程で行う通過儀礼などの儀式を行う。
    • その宗教の特徴となる象徴 シンボル を持つ。
  • 物事についての考え方
    • 神かそれに類する、自分がよく知らず意のままにならない存在や力についての説明。 これは人格神と呼ばれるような、実在の人物や人間によく似た存在である場合や、自然の働きそのものである場合、運命・運・福・天罰など独特の抽象概念の場合もある。 こうした説明は、多くの場合「自然」が何であるかについての説明を含む。
    • 祈りや儀式・儀礼など、こうした存在や力に働きかけて、物事が自分の望むように進むようにするための手段についての説明。多くの宗教では、こうした存在や力に対する畏敬の念を説いている。人間よりも何らかの意味で優れている存在、場合によっては全知全能の存在として、許しや慈悲や恵みを請う、あるいは願う場合も少なくない。これは、科学において、自然や物理法則を利用して物事を自分の思うままに進展させる際に畏怖や祈りが必要とされない点と好対照をなす。
    • 占い、神託など、こうした存在や力の動向を知るための手段についての説明。
    • 病、死、天災、収穫、天候、などが何であり、どのように訪れるかについての説明。
    • 集団や個人の生活の営み方。祝い事、祭り、儀式、祈り、禁忌、など。
    • 命、死、死後の世界、などについての説明。
    • 善行、悪行に対して与えられる報いについての説明。
    • 時間の始まりと終わり、空や地上や海の起源や形状、星や太陽や月の実態、世界の起源や終末についての説明。
    • 価値観と世界観(価値観とは人生や社会において何が大切であるか、何をしてはならないか、などを規定し、世界観とは、この世界はどのような成り立ちをしているかについて、のべた考え方を表すもの。)
  • 信仰対象
    • 自然物、過去の人物、先祖、人格神、因果などの象徴的存在などについての信仰
  • 宗教体験
    • 修行や儀礼などを通した宗教体験・神秘体験

信仰内容には、通常、科学で検証の対象とならないような世界の秩序、人間の存在の意義などについての考え方が含まれている。 なお、考え方や教義の中に含まれる思想的傾向を教団や信者団体が実践しているかどうかは、また別の問題である。


宗教の対象が普遍的・究極的なものである場合が多いためか、「宗教」という単語に対しても、厳密な定義があるかのように考えられる場合がある。しかしながら日本語の「宗教」という語自体の定義は明治以降に広まったものであり、また百数十年の間にも変化しているものである。また、日本語以外の「宗教」に相当する単語は、各言語の歴史的・文化的経緯を経て意味が確立しているため、厳密にはそれぞれ別の意味を持つ語である。そのため、「宗教」という言葉がどのような意味で使われているのかは、文章中の定義や文脈で判断する必要がある。

また、宗教を広義にとらえると、その構成要素には社会や文化や生活、思想や道徳など、非常に広範な物事が含まれる。その宗教の中に生きている人間は通常宗教を意識しない。宗教は、他の宗教との接触があった場合や政治権力が宗教的権力と対立した場合、理科学的事実と経典内容に矛盾が存在した場合、あるいは聖と俗など非日常的なものと比較的日常に属するものの区別を行う場合に表面化する。このため、キリスト教に対する未開の宗教、政治権力に対する宗教教団、科学による世界観に対する宗教的世界観、日常生活に対する祭り、などの形を通して宗教は意識される。顕在化した宗教意識は場合によって視点が異なるため、「宗教」という言葉が指す内容も場合により異なる原因になる。

宗教の定義に関する一般的な問題として、以下の問題がある。

  • 明治・大正時代においては、神道非宗教論(正しくは「神社非宗教論」)が展開された。これは、宗教とは個人の信仰であり、神道儀礼は宗教ではないとするものである。この問題は、現在においても、靖国神社参拝と信教の自由に関する問題などに影響を与えている。
  • 江戸時代において、仏教(禅宗)からの儒教(朱子学)の分離が進められた。明治時代において宗教概念が成立した際に、仏教から分離し道徳規範となる儒教は、宗教であるのかないのか、分類が難しいものとなった。また、現在においても、禅や儒教は宗教というよりは東洋思想ではないか、等の、定義に関する論争がある。
  • 一般に宗教は組織をもつとされるが、そもそも教団と呼べるほどの制度が存在しないままに存在している、つまり組織が存在しない宗教的な活動も存在する。また、宗教にはしばしば特定の開祖が存在していることを考えれば、そうした宗教は初めから発達した組織と結びついているわけではないと言える。
  • 近年では精神世界、ニューエイジ・ムーブメントと呼ばれるような動きや、自己啓発セミナーなどを通じて、制度化された特定の宗教とは結びつかない形での宗教的実践や信仰が生じている。宗教を個人的な真理などの探求と捉え各種の宗教から情報を得る。このようなニューエイジ・ムーブメントを、組織宗教からはなれた、より個人的な宗教性の探求と捉えることもできる。このような宗教は宗教団体として確認することができないため、見えない宗教と呼ぶ場合がある。
  • 創唱宗教と対比されるところの自然宗教も、そもそもそれを信じている人が宗教や信仰についてあまりはっきりと自覚しておらず、宗教組織も非宗教組織から独立した形で明確に存在しているわけではない場合が多い。
  • 一部の禅宗では、信じるべき「教え」がほとんど与えられず、単に全てを疑うことが奨励される。また、禅宗以外にも、宗教には、特殊な体験・神秘的な体験を通して感覚的に何かを体得することを重視したり、そのための手段として身体的な修行を実践する側面もある。こうした宗教的な体験を重視し、信者が個別に探求を行うことを奨励する宗教もある。この場合、宗教は何か従うべき教えがあり、それはしばしば聖典に書かれている、という考え方はあてはまらない。但し、特にこうした傾向が強い場合は神秘主義と呼ばれ、宗教と区別される場合もある。
  • マルクス主義やナチズム、不可知論は、価値観や世界観を提供する。また、科学的といえない部分があり、視点によっては宗教と同等の機能を持つ。そのため、宗教と同列(宗教に準じるもの)に扱われる場合がある。
  • 神の不在を信じる無神論は宗教的立場の一種であるとみなすことができるため、宗教と同列(宗教に準じるもの)として扱われる場合がある。
  • 近代化や都市化、科学の発達、あるいは人権思想の発達などにより、宗教が担ってきた様々な機能や要素が他のものに置き換えられていった。これは言い換えると、政治や科学、あるいは人権思想などは、宗教と同種の部分含まれていると言い換えることもでき、同列に扱われる場合もある。
  • そもそも宗教(Religion)はラテン語起源の言葉であり、キング(1987年)のように宗教を定義しようとする試み自体が基本的には西洋的な態度である、とする考え方もある。
  • インドでは、人間や、人間が属する世界についての思弁・洞察をダルシャナと呼ぶ。インドの思想家たちはダルシャナの具体例として、仏教やジャイナ教といった宗教をあげるが、同時に、ニヤーヤ学派(論理学の研究で知られる)、ヴァイシェーシカ学派(一種の自然哲学)、文法学派(文法を研究する一方、言語=宇宙的原理であるというような主張をするのでヨーロッパ的な意味での「文法学」と異なる)など、一般に哲学(インド哲学)と呼ばれるものもダルシャナにあげる。インドでは宗教と哲学は一体をなしていて不可分であり、ダルシャナは宗教のみならず、哲学という側面をあわせ持つ。ダルシャナはヨーロッパ的な意味での「宗教」や「哲学」という概念を逸脱している。インドにおける「ダルシャナ」という概念の存在はヨーロッパ的な意味での「宗教」の定義の普遍性に疑問符を突きつけているとも言える。
  • 政府として、宗教をどう定義しているかは国や時代によって異なり、それには政治的な意図が絡んでいる。例えば、戦前に神社は宗教ではないとしていたのは、国家が神社を保護するためである。また法輪功を宗教ではないとしていること(中国)や、オウム真理教は宗教ではない(宗教に値しない)という言説は、信仰の自由のもとで宗教弾圧を行なうためのものである。

日本の現行の民法では、宗教と祭祀を区別しているようにも解釈できる。 このように人々や社会の営みのあり方が宗教と非宗教の区別を持たないケースがあること、また、そうした区別が仮に研究者によって見出されることがあるとしても、当事者は意識しているとは限らないこと、などは宗教の定義を困難にしている一因だと考えられる。

また、「宗教」とならび、宗教で重要な地位を占めることの多い「神」の定義も困難である。古代の日本において「カミ」は、人知を超える霊的な力の総体を指すものであり、「かしこきもの」とされる。いわゆる「神様」だけではなく、精霊のようなものも含まれる観念であったと考えられる。一方、漢字の「神」は人の心(死んだ際に抜け出すもの)であり、日本語では「タマ」に近いものと考えられる。また、戦国時代にはキリスト教にある唯一絶対神も含まれる。神も、時代・地域(文化圏)の変化とともに定義が変わってきたものである。

カルトと宗教の問題も重要である。 海外でもカルトは問題視され、欧州に置いては国レベルでカルトとそうでない団体を区別しようと試みている。 どのような宗教であるかを問わず、どのような被害や問題がおきているか、人権侵害がおきているかによってカルトとそうでない団体を区別しようとしている。 特にフランスではセクトと読んで問題の多い団体に国単位で対応しておりMiviludesという組織を中心に大々的に対策を行っている。 また欧州人権条約9条を遵守している国に置いては宗派を理由にした差別は違法である。

逆援助逆援助
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
カテゴリー
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
No Name Ninja
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
忍者ブログ * [PR]